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太古の昔から、人類は自然と格闘し、それを克服することで、社会を発展させてきた。

それらは、多くの場合、人間だけが快適で便利に生活することが目的だったはずだ。

もちろん、だから何をやってもいい、ということではない。

むしろ、さまざまな形で自然と環境を人間が破壊しているいま、自然との調和を図りながら、この地球をどう守っていくかが、真剣に考えられねばならないと言える。

無制限な森林資源の伐採や、アマゾンなどの秘境地の"開発"が地球環境そのものを変えてしまう、という科学者たちの警鐘は、もっと深刻に考えられてしかるべき問題だろう。

フロンガスによるオゾン破壊の問題も、早急に解決すべきと言えるし、海洋汚染の問題にも眼を向ける必要がある。

考え、取り組まねばならない問題は数多くある。

しかし、それらを一律に"自然破壊だからヤメロ"と言うだけでは、何ひとつ解決しない。


ちゃんと使えば、虫は殺しても、人間には害がないように作ってあるのが殺虫剤なんですから。

それから、事故や事件(自他殺)は、これはモノのせいではなく、人間の問題です。

事故はなるべくなら起きないでほしいと思っていても、時によって不注意や何かの無理、よほど不幸な偶然が重った場合に発生する。

関係者は事故をなくす努力はしていますが、これを100%なくすのは難しいことです。

それは、交通事故や飛行機事故を考えればわかるでしょう。

一言つけ加えれば、ほとんどの自動車事故は、ドライバーの責任は問われても、メーカーの責任が問われたり、自動車の存在そのものがウンヌンされることはありません。

農薬の場合だけ、何故大騒ぎされるのか不思議です。

自殺や他殺は、作為があってやっていることですから、農薬の善し悪しの問題とは別次元の話でしょう。

作為のある人にとっては何でもいいんですから。


83年に、天然化学物質に関する試験データを発表する少し前あたりから、エイムズ博士は考え方を変え、現在では、当時の発言は極端すぎたと本人が釈明している。

そんな背景もあって、このレポートは、非常に大きな議論を巻き起こした。

ABCテレビがニュース番組で取り上げたり、リーダーズ・ダイジェスト誌が誌上討論を企画したりした。

エイムズ博士に対しては、「企業の御用学者に変節したのか」という抗議の声も起こった。

学者の間からは、「ランキング作成の基準が適切ではなく、不正確だ」との声も出ている。

これらの議論は、一年や二年では、とても決着がつくようなものではない。

興味のある方は、是非注目していてもらいたいが、誌上討論はきわめて専門的で適当な翻訳がないのが残念なところだ。

ただ、コメでいえば「ササニシキ」や「コシヒカリ」が病害に弱いのと似て、凍霜害や、炭そ病という病害に弱いという欠点があるのが難点といわれている。

それはさておき、激しい産地間競争に勝ち抜くためには、地域ぐるみで優良産地をめざしているのは、この掛川も同様である。

製茶工程に工夫を施した「深蒸茶」が、ここの特産品である。

製茶工程もひと仕事、りんごやみかんは、果実を摘んだら、それがほぼそのままの形で消費者に届く。

しかし、お茶は生の葉っぱでは商品にならない。

摘み採ってからの製茶工程がひと仕事なのである。

細かな説明は省くが、ふつうの煎茶の場合、まず、蒸機→粗揉機→揉捻機→再乾機→精揉機→乾燥機という第一次加工を経る。


茶の分類(残留農薬検査)

茶は、植物学的にはツバキ科に属する植物で、西南アジアから日本にかけての温暖多雨地帯に広く分布する。

背丈も葉も大きなアッサム系と、小ぶりな中国系に分類されている。

紅茶、ウーロン茶、緑茶などの違いは、植物の種類ではなく、加工方法の違いによるものである。

大まかに説明しよう。

紅茶は、摘んだ生葉を放置しておき、生葉に含まれる酸化酵素の働きで葉全体が発酵し、褐変するのに任せる「発酵茶」、緑茶は、生葉を摘んだらすみやかに蒸気をあてて酸化酵素のはたらきを止め、少しずつ水分を減らす工程を経て最後に乾燥させる「不発酵茶」、そしてウーロン茶は、生葉を途中まで発酵させたあとで、釜いりによって発酵を止め、乾燥して仕上げる「半発酵茶」ということだ

それぞれ、さらに細かな分類ができるが、詳しく触れる必要はないだろう。

「虫は、種類によっては発生を目で確認してからクスリをかけても何とかなる場合もある。

だけど、病気の菌は目に見えない。

見えるようになった時はもう、相当にやられているんだ。

だから消毒は絶対に欠かすわけにはいかない」

斑点落葉病のほかにも、りんごに害のある病気や虫は数多い。

今さんや石岡さんがいま、一番手を焼いているのが、腐らん病である。

人間でいえばガンに相当する病気で、幹や枝のキズや勇定の切り口、接木した場所などから病原菌が侵入して樹皮を腐らせる。

放置すると1~2年で樹をダメにしてしまううえ、冬でも胞子が飛ぶから年中感染する可能性のある恐ろしい病気だ。

高橋さんは、苦労をしていながらも、農薬使用をやめる気はないという。

「いいみかんを作るうえで、それが必要だからです。

以前、無農薬で作ったというみかんを見たことがあったけど、"これがみかんか"という感じでした。

品質向上のためには、我々はいろんなことをやってきたんです。

たとえば、摘果調整しなかった時分には、玉も小さかったし、黒点病なんかがついてる方が甘いといって、気にせずに出荷しても、とにかくみかんでさえあれば売れる時代もあった。

だけど、今はそんなことじゃダメです。

品質チェックが昔とは全然違うんですよ。

最近の消費者は外観にこだわり過ぎるようだけど、それなら、我々は誰にも負けない味で、外観も良いみかんを作って生き残ろうということです」

輸入は自由化されている。

鮮度を保つ技術が開発され、韓国、中国の沿岸部で栽培されるようになれば、たちまち脅威となる。

それはネギなどの輸入急増で実証ずみだ。

そうした中で野菜、食肉の自給率を向上させるというのであれば、それなりの戦略と対策が必要だ。

米国のようにグローバル化、国際化の流れにひるまないルール作りを試みる強い決意が必要だ。

しかも生産者が納得し、そうしたルール作りを信頼して、自給率向上対策に積極的に取り組んでいくような戦略がである。

そうした有効策がないのであれば、建前だけの自給率向上策は信頼されない。

失敗は目に見えている。

コメの消費拡大策は自給率向上を目的とする農政にとって最重要課題である。

食料を海外に依存する中で、主食であるコメの完全自給策を堅持してきた。

ウルグアイ.ラウンドでコメの輸入を受け入れ、さらに関税化に踏み切ったものの、自給率の最も高い穀物である。

そして国内で増産余地の最も大きい作物であり、今後、自給率を向上させようと考えればコメの消費拡大と、それに応える増産が最も手っ取り早く実現する方法だ。

しかも稲作は他の作物のように連作障害がなく、農地を有効に活用できるだけでなく、水田が巨大なダム機能となり、国土の水資源管理に大きく貢献している。

さて、花き政策をどのように評価すべきかだ。

切り花が需要不信から目標を下回ったのは、現下の景気動向から止むを得ない事情にある。

切り花農家の多くは専業であり、近代的な経営感覚も浸透している。

農家の経営状態は良くないだろうが、その対策を農水省が打つべき性格のものではないと考えられる。

むしろ農家の自主的な判断を助成する立場に徹することが重要だ。

そのためには花き経営の情報提供の環境整備、新品種などの開発助成など、まさに農水省が目指す21世紀半ば型の農政を模索すべきだろう。

そして鉢物、花壇用苗物の需要増は注目に値する。


地元の強い反対運動も強まり、全国的な環境破壊への反対運動に発展して干拓工事そのものが立往生するに至った。

こうした事態に直面して、農水省は政策評価の手法をいち早く採用し、農政の展開に生かす必要を感じたのである。


つまり、事業計画の中身を公開し、専門知識を持つ学者など第三者の意見を尊重しながら、事業を継続するかどうか、決断を国民の視点で判断して進めようと言うのである。

第二は、農林族議員の圧力に対する抑止力を何らかの形で作る必要に迫られていた。

というのも、農水省はコメの市場開放を決断して以降、農政に対する国民の関心が薄れる中で、一部の自由民主党農林族議員の利権漁りの要求に頭を抱えていた。

いずれも干拓事業による大規模農地の開拓を目的としていたが、数十年も前の食糧不足時代に立案した大型の公共工事だった。

このため年月が経過するうちに食糧不足時代は飽食の時代に移行して、食糧不足の解消という工事の目的が喪失してしまった。

もっとも事業目的はそれだけでなく、山問部の農民を平坦な大規模農地に移住させ、農業の規模拡大と生産性の向上を計るという構造改革計画でもあった。

だからこそ工事は継続されてきたのだが、環境問題という深刻な問題が浮上してきた。

「中海のシジミを殺すな」「有明海のムツゴロウを殺すな」「養殖ノリの被害の責任を取れ」

と言った声が全国的に広まった。

国民も何が始まったのか、知るところとなるだろう。

この政策評価という霞が関の動きは、農水省にとって、新農政の実施とタイミング的に重なるものだった。

農水省の新農政とは、食料・農業・農村基本法を1999年7月に制定し、2010年までの10年間に食料自給率を四〇%から四五%に引き上げる目標を掲げ、その実現のための基本計画を前半の五年間を対象に立て、2000年度から基本計画達成のための個別の政策を実施するというものである。

タイミングが符合した以上、この政策評価の手法を活用すべきと農水省は考えた。

一つの英断である。


国民にとって、消費税のように直接利害に関係しないばかりか、「どうせ各官庁が自身の政策を自己評価するのだから、自己弁護に終わり、さしたる成果はあがらない」と見切っているのかもしれない。

たしかに、その通りの結果になる可能性が大である。

しかし、日本の行政にとって画期的な試みであることには変わりない。

それと同時に、グローバル化という時代の変化に行政が対応しようという注目すべき動きでもある。

つまり、この制度が要求している政策評価とは、それぞれの省庁が実施している政策を、自ら客観的データに基づいて評価してみせるという機能を備える行政手法の確立である。

それぞれの官庁が、自らの政策をどのような考えで正当化するか、どのような統計数字を使って政策の目標を示し、どのように説明するか、さらに社会問題化し糾弾されている施策に対して、どんな理屈で正当化し、その必要性を訴えてくるか、けだし見物である。

そこには各官庁の時代に対する適応力、国民の支持を獲得する説明能力が表現されているはずだ。

それは、こうした政策に関連している官庁の職員だけでなく、地方自治体の関係職員、関係業者などの人々にとって、文字通り、自身の職務の将来性を決定付ける評価となる。

霞が関の全ての官庁が行う2002年度からは、これまで以上に注目されるであろうし一歩先んじて実施している農水省の動きは、さらに注目されるだろう。

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